国際通りでつけ麺を食べ、戦争の悲惨さを学ぶ。
目次
高速道路に乗る
慶佐次川から那覇市へと向かいます。
途中から高速道路に乗ります。
沖縄自動車道は、沖縄県の真ん中にある「許田」インターから那覇市まで通じています。
はしからはしまで乗って1020円です。
なんで沖縄には電車を作らなかったんでしょうかね?
3つ目のゲストハウスは会話ゼロ ・・・空ハウス
3つ目のゲストハウスは、ここです。→ 空ハウス
まとめサイトでおすすめ10位に入っていて、写真も良さそうな雰囲気だったのでネット予約しました。
ここでは、誰とも会話はしませんでした。
受付に人はいましたが、明らかにアルバイトの人でした。
宿泊客もいましたが、誰かと話したがっている雰囲気の人はいませんでした。
リビングのような、みんなが集まれる団らん出来そうな場所はあるのですが、人がそこには集まってなかったです。一人寂しくパソコンをいじるだけでした。
結局、韓国の人とあいさつ程度をひとことふたこと話しただけで、他はまったく会話することなく終わりました。
「ゲストハウスというものは、こういうパターンもあるのか」と悟りました。
客同士の交流は、ゲストハウスによってあったりなかったりのようです。オーナーが音頭を取って交流させるというパターンの方がむしろまれのような気がしています。
「バックパッカーのみならず広く一般的に格安の宿として寝るところを提供する」のがゲストハウスであり、交流の促進はあくまでもゲストハウスからのサービスの一つだというのが、今の私のゲストハウスの定義です。
国際通り
ゲストハウスにチェックインしてから国際通りへ行きました。
国際通りは、那覇市にある沖縄で一番の繁華街です。
夜の8時から10時までウロウロ歩き回りました。
濃いピンクが国際通りです。
沖縄は、あちこちでシーサーを見ます。
ラーメン屋に行列が出来ていました。
ラーメン総選挙 第一位だそうです。ラーメン総選挙?
調べたら、福岡を中心とするチェーン店でした。サイトはこちら →ラーメン暖暮(だんぼ)
吉野家はないようでした。こういうチェーン店があるようです。
牛丼とカレーと「沖縄そば」です。
ちょっと興味を引かれたので、調べてみました。こちらです → 沖縄ローカルっぽい牛丼チェーン「どん亭」
塩もちらほらと売ってましたね。おみやげ用がメインでしょうかね?
おみやげ屋も多かったですね。
ちんすこう、泡盛、宝石、陶磁器、Tシャツ、さとうきびジュース、などがよく売られていました。
ヒャッキンの「ダイソー」も出店してました。
沖縄でもガンダムは普通に人気のようです。 子供くらいの大きさのガンダムとシャアザクとザクです。
他にも、あしたのジョーや大きいジョーズなどもありました。
国際通りから、枝分かれのようにいくつも商店街があります。
ここは「市場本通り」
国際通りをだいぶ端の方まで歩いてきました。
これは、牧志駅近く。ゆいレールの駅です。
うまそうなつけ麺屋を見つけて、入りました。
ウロウロとさんざん歩いて、結局つけ麺を食べました。
沖縄まで来てつけ麺ってどうなんですかね?
選択として正しかったかどうかはさておき、とてもおいしかったです。
また、店内にはすごい懐メロがかかっていて驚きました。
リマール「ネバーエンディングストーリー」
ブライアンアダムス「one night love affair」
ボンジョビ「You give love a bad name」
こんな歌が続けてかかってたら、「おっ?」と思いませんか?
店の人に聞いたら、有線放送だそうです。
食後のデザートに、パイナップルのジェラートを食べました。430円。
歩きながら、食べました。でかかったです。
平和祈念公園
沖縄の4日目です。
沖縄男一人旅の最終日は、沖縄南部を回ります。
私はNHKスペシャルの戦争ものは欠かさず見ています。沖縄戦の特集もいろいろと見たことがあります。
朝早くから平和記念公園に来ました。
平日ということもあり、まだ誰も来ていませんでした。
沖縄平和祈念堂です。恒久平和と戦没者の追悼の象徴として建設されました。
沖縄戦
第二次世界大戦末期の1945年3月26日に沖縄に上陸したアメリカ軍と旧日本軍との間で始まった日本国内最大規模の地上戦のこと。3か月にも及んだ組織的な戦闘は多くの住民を巻き込み、同年6月23日に終了。沖縄での両軍および民間人を合わせた地上戦の戦没者は24万人余りといわれる。
「平和の礎」
国籍や軍人、民間人の区別なく沖縄戦の犠牲になった24万人余りの名前を刻んでいます。
戦争で亡くなられた方の名前が彫られています。
「平和の火」
広島と長崎から火を分けてもらい合わせて、ここで燃え続けているそうです。
ひめゆりの塔
続いて、ひめゆりの塔に来ました。
3月23日に戦闘が始まり、ひめゆり学徒も動員され、最後は6月18日に解散となります。
解散の後、南岸に向かって逃げていきますが、砲弾で死んだり海で死んだり自決したとのことです。
ちょうど高校生が修学旅行か何かで来ていて、隣でガイドさんが解説していたのでいっしょに聞きました。
この穴(豪)の中にひめゆり学徒が隠れていましたが、6月19日米兵に投げ込まれたガス弾によってもがき苦しみのたうちまわりながら死んでいったそうです。
他にも豪はあって多くの学徒が亡くなりましたが、皆を慰霊するためにここに建てた塔が、ひめゆりの塔です。
つづく